2012年7月19日木曜日

俺の屍を越えてゆけ 当主の覚書5


1019年3月 (2代当主:山ノ下 山剣馳夫―年齢:5ヶ月 1年目)

相翼院の討伐から戻って直ぐに父上が倒れられた。イツ花が皆を集めてオレが二代目当主に選ばれたと伝えた。二人の姉を差し置いて何故と思ったが、姉二人は何も言わず私を御当主と呼んで頭を下げた。
こうなれば腹を決めるしか無い。
イツ花に「これより初代当主である父上の名、馳夫と名乗る」と伝えた。イツ花は父上が気がついたらその事を伝えると言って父上の看病に戻った。
オレは弓福に交神の儀の準備をするよう下知した。
その後一日も立たず父上の様態が悪化し、逝ってしまわれた。
何故オレを選んだか聞きたかったがその間もなかった。今際の際に言い残したのは、決して振り向くな俺の屍を越えてゆけだった。それも殆ど聞き取れないほどの弱った小さな声だった。たった数ヶ月前、七天斎 八起を討ったとは信じられなかった。
父上が逝ったのと入れ替わるように、姉 薙焔と愛染院明丸様の子が屋敷に来た。父上はこの子の来るのを楽しみにいしていたが間に合わなかった。薙院と名付け母親と同じ薙刀士として育て来る事にした。
父上が幾つかの言いつけをイツ花に託していた。この覚書を書くこともその1つで、あとは福弓の交神の儀の事だった。
お相手は根来ノ双角様とオレが決めた。交神の儀の準備の合間に薙焔に薙院の訓練を命じた。
交神の儀は滞り無く済み、当主としての初仕事を終えた。

1019年4月 (2代当主:山ノ下 山剣馳夫―年齢:6ヶ月 1年1ヶ月目)

薙焔に薙院の訓練を続行させ、オレと福弓は九重楼の討伐にでるが目立った戦果なし。
京の街の商人に壱万両を寄付。

1019年5月 (2代当主:山ノ下 山剣馳夫―年齢:7ヶ月 1年2ヶ月目)

根来ノ双角様と福弓の子が屋敷に到着した。弓根と名付けて、薙焔に教育係命じた。
オレ、福弓、薙院で相翼院討伐にはいる。薙院の初陣である。薙焔は少し心配そうだったが弓根を直ぐに使いもになるようにしたかったので我慢してもらった。
本殿までの道のりで斬った妖怪の一人尻子玉大将から神々しい光とともに白浪河太郎様が天界に戻られた。
しかしそれ以外は目立った戦果なし。5月も終ったが翌月も討伐を続行とした。

1019年6月 (2代当主:山ノ下 山剣馳夫―年齢:8ヶ月 1年3ヶ月目)

相翼院討伐本殿まで辿り着くが、相翼院は広大だった。雑兵の妖怪どもを何体も斬ったがその全容は掴めず、帰還する。

1019年7月 (2代当主:山ノ下 山剣馳夫―年齢:9ヶ月 1年4ヶ月目)

姉上、薙焔の老化が大分著しい上に身体の調子が悪そう気がかりだ。父上の時と同じだ。
オレ、弓福、弓根、薙院の四人で白骨城討伐に出る。
広い原野を抜けた先の白骨城に辿り着いたが2階までで帰還した。

1019年8月 (2代当主:山ノ下 山剣馳夫―年齢:10ヶ月 1年5ヶ月目)

白骨城から帰るとイツ花が暗い顔をして立っていた。
案の定、姉上の薙焔が倒れたとオレに伝えた。俺たちが駆けつけると直ぐに逝ってしまった。待っていてくれたのだろう。
今際の際に、自分が死んだら母親に当たるささらノお焔様が泣いてくれるのか笑って迎えてくるのか気にしていたが、果たしてどっちだったのか。
薙焔姉さんは、父上と一緒に初陣を迎えた古株だ。ずっと当主である父をそして私を支えてくれた。私にとっては姉と言うよりは母に近い存在だった。
好きだった焼き餅を最後に食べたがっていたとイツ花に聞いた、しかし死が近い老人に食べさられるものでもなく随分とイツ花を困らせたそうだ。
ずっと姉として母としてオレたちの我儘を聞いていた薙焔姉さんだ。最後に少しくらい自分も我儘を言ってみたかったのだろう。葬式には焼き餅を供えた。

葬式の後、朝廷が催す朱点童子公式選抜隊選考会に出場することにした。
京都中から朱点童子と戦う強豪たちが揃い御前試合を行う。山ノ下家は初出場だ。
勝ち抜き戦で争うのだが、初戦から最後まで苦戦せず優勝してしまった。
完全に拍子抜けだが、帝からお褒めの言葉と多額の報奨金に褒美を賜った。
その夜は父上と薙焔姉さんの仏前に褒美と報奨金を供え、宴を催した。